「もしアドラーが上司だったら」の感想とまとめ

アドラー心理学の入門として最適

2020-08-26

もしアドラーが上司だったらがすごくいい本だった。
嫌われる勇気を少しだけ読んで、「アドラー心理学おもしろいじゃん。ほかに何かないかな」と思って探したときにこの本に出会った。
こっちはサラリーマンをモデルにしているのでイメージしやすい。アドラー心理学の入門として最適だと感じた。
内容もかなり読みやすいので、なんか生きづらさみたいなのを感じている人にはぜひ読んでもらいたい。
機能価値と存在価値の話では泣いた。ドラさんの言葉がやさしくて涙が出てきた。

アドラー心理学に対しては結構厳しさのあるものなんだなと感じた。そして厳しいからこそ勇気が必要なんだろうなと理解した。
自分と向き合うって結構大変なんだよね。ただ、勇気をもってそこを乗り越えた先には安定した人生が待っているんでしょう。

以下は本の簡単なまとめ。結構はしょってるところもあるので、気になった人は本を読んでみてください。

アドラーとは

アルフレッド・アドラー(1870年~1937年)
欧米ではユングやフロイトと並んで称される心理学者。

2つの中核概念「勇気」「共同体感覚」

アドラー心理学において重要な概念が「勇気」と「共同体感覚」。
アドラーは勇気があり共同体感覚が高い人を「有益な人」だと語った。

自己決定性

アドラー心理学では問題の原因を他者や環境のせいにして自己正当化することを認めない。すべては自分が決めたことであり、自分で決めることができる。
よく「過去の体験は一切関係ない」「トラウマなど存在しない」と誤解されるが、アドラーはそこまで強い断定はしていない。
過去の経験の影響はあるだろうが、それでも今の行いを決めているのは自分なのだと考える。
これは「いつでも自分を変えることができる」という希望に満ちた考え方ともいえる。

「機能価値」と「存在価値」は別

機能価値とは能力の高低を表すもの。会社ではこちらの価値が求められる。
存在価値は能力の高さに関係なく、「ただそこにあるだけで十分価値がある」という考え方。
存在価値を認識し、自分の土台としていれば機能価値の高低に一喜一憂することはなく安定した人となれる。

自己受容と勇気

存在価値を認めるには自己受容が必要。
自己受容とは、「欠点も含めたそのままの自分を認める」ということ。
これを行うのはかなり厳しい。しかし、自己受容できれば勇気を持つことができる。

似た言葉に自己肯定があるが全く別の考え方。
自己肯定は条件付きの肯定で、その条件の多くは機能価値に紐づいている。つまり機能価値が低くなると自己肯定することができなくなる。
これに対して自己受容に条件はない。弱さもあり不完全な自分をただそのままを受け入れる。

不完全を認める勇気を持て - ソフィー・ラザースフェルト

勇気がない人は自分には存在価値がないと考える。なので機能価値を求めて競争する。競争に勝利して他者から評価されなければ自分には価値がないと感じてしまう。

勇気がある状態

人は勇気さえあれば放っておいても努力を続ける。現状に満足しても歩みを止めることはない。さらに上を目指す。

勇気とは困難を克服する活力。勇気があると「自分は相手に貢献でき、誰かの役に立つことができる。自分には価値があり、能力がある」と思える。

勇気は循環する。他者を勇気づけたとき、同時に自分も勇気づけられている。

共同体感覚

人は協力し合わないと生きていけない。そのなかで他者へ貢献することが最も重要。
他者へ貢献できたとき、人はそこに居場所を見つけ安らぎを感じる。これを「共同体感覚」という。
共同体感覚を育てるには他者を喜ばせるのがよい。

他者を喜ばせようとしても、すべての人が喜んでくれるとは限らない。馬鹿にしてくるような人もいるだろう。そんな時でも見返りを求めずに、まずは自分から始めることが大切。

誰かが始めなくてはならない。見返りがなく、認められなくても。誰かが始めなくてはならない。まずは、あなたから始めるのだ。

課題の分離

他者を喜ばせようとして行動するかどうかは自分の課題。それに対して他者がどう反応するかはその人の課題。他者の課題には踏み込まず、自分の課題との間に境界を引くことを「課題の分離」と呼ぶ。
他者の問題に踏み込むことを「支配」、自分の問題に他者を踏み込ませることを「服従」と呼ぶ。相手の反応を気にしすぎて、不本意な行動をとることも服従の一種。

人が自分のことを好きになるか嫌いになるかはその人が決めることで自分にはコントロールできない。コントロールできないものに振り回されるな、ということだと感じた。

人に任せる

人に仕事などを任せるということは、その人を信頼(信用ではない)し自分を信頼しているということ。
「任せる」という行為は勇気づけそのものであり、共同体感覚の発揮でもある。